たとえば胸騒ぎ

私を構成するいくつかの、あの時と今とこれからと。あるいはそのカケラ。

『余生』

 

今までの人生で

選ばなかったものがある。

 

車のハンドルを握りながら思考を巡らし

結局なんやかんやで

それを選ばなかっただろうな

もしくは

選んだとしても

すぐに別の道を進んだだろうな

うん

悪くないな

今の状況

なんて

フロントガラスを流れる街並みを見ながら

ふと

思い至る。

 

後悔

というのとは

少し違う。

 

選ぶ

という選択肢と

選ばない

という選択肢。

 

そして

納得する。

 

こうするしかなかったよね

と。

 

移る景色に

じんわりと

センチメンタルが揺れる。

 

昔読んだ北野武の本に

こんな一節があった。

 

たとえば

小説を書くとしたらの話。

 

野球選手が癌で死んで

輪廻転生して生まれ変わっても

また野球選手になりたいと思う。

その時に

野球選手として

どう歩んでいきたいかという

理想のストーリーを考える。

 

こどもの頃から天才と呼ばれるのがいいな

とか

いや待てよ

途中で肩とか壊したほうがいいかな

とか

甲子園には行くんだけど

優勝じゃなくて

準優勝くらいの方がいいかな

とか。

 

そしてふと気がつく。

 

あれちょっと待てよ

それって今の俺じゃん

っていうオチがいいな

と。

 

過ぎてしまえば

今の自分って

理想の自分なんじゃないかって気づく

っていう。

 

 

まさにその通りだよ。

 

笑っちゃうくらい

納得せざるを得ない自分物語。

 

そして今また

新たな選択の岐路にいる。

 

どうありたいのか

自問自答。

 

そして

いわずもがな

繰り返し繰り返す。

 

なにを選んで

なにを選ばないのか。

 

時々

ふりかえれるセンチメンタルのおかげで

私は自由の意味を知る。