たとえば胸騒ぎ

私を構成するいくつかの、あの時と今とこれからと。あるいはそのカケラ。

『君の名前で僕を呼んで』

 

何となく気にはなっていて

すっかり忘れていた。

 

たまたま目にしたタイトルに引っかかり

何だったっけ?

と検索。

あ、観たかった映画だよー。

アブナイアブナイ。

 

上映終了まであと数日。

 

スケジュールをチェックすると 

行けるのは今日のみ。

よし。

行ける。

22時前の映画館に滑り込む。

 

そこには

懐かしい痛み

みたいなものがあった。

 

名前を呼びあう

というのは

特別な感情が動く。

 

日本人なら特に

名前で呼び合える親しい人達には

やはり

名字で呼ばれるより

親愛の情が深くなる

というのは

人間の性なのかもしれない。

 

愛する人となれば

なおさら。

 

相手を大切に想う

大切にしたい

特別なんだって伝えたい

そんな本能からの欲求。

 

エリオとオリヴァー。

 

二人は

お互いを通して自分を見つめ

お互いが

いつかの

あるいは

自分も知らない自分と

重なっているようだった。

 

時として

言葉は雄弁じゃない。

 

一番伝えたい人に限って

ちゃんと伝えたい

思えば思う程

伝えられない。

 

思い返す。

あの時。

あの時。

あの時。

 

だから尚更

通じ合えた喜び

知ってしまった感情

見つけてしまった居場所

それを失う喪失感は

いつも

こんな風にもう二度と

という想いを

もれなく連れてくる。

 

心から大切に想える人との出会いは

やっぱり

奇跡なんだと思う。

 

そして

呼べなくなった名前が

ひとつではなくなったことに気づいた時

もう二度と

という思いの純粋さと

もう二度と

ではないかもしれない新しい明日が

出会いと別れには

いつも寄り添っているんだということを知る。